6 cmの速度で北進したため、アトラス山脈が生成したと考えられている。アトラス山脈の南には山脈の全長にわたって巨大な断層が続く。このため地球上では比較的、地震の発生が多い地域である。記録的な大地震は隣国アルジェリアに多いものの、リスボン大地震と同時期の1755年11月19日に発生した地震や1757年4月15日の地震では、いずれも死者が3000人に達した。1960年2月29日の地震は被害が大きく、死者は1万5000人だった。 主要河川は、地中海に流れ込むムルーヤ川(英語版)、大西洋に流れ込むスース川(アラビア語版、英語版)、テンシフィット川(アラビア語版)など10本程度ある。ジス川(アラビア語版、英語版)とレリス川は、サハラ沙漠に向かって流れ降る。ドラア川もサハラ砂漠に向かって流れるが、この川は雨量が非常に多い場合にはサハラを横断して大西洋に注ぐ場合がある。エジプト、スーダンを縦断するナイル川を除くと、モロッコは北アフリカでは最も水系が発達している。さらに、山脈による充分な高低差も存在する。これらの理由で、降水量が比較的少ないのにも拘らず、総発電量の約6パーセントを水力発電でまかなってきた。 気候[編集] 年間を通じて、大西洋上に海洋性熱帯気団が居座っており、常に北東の向きの風が卓越している[注釈 3]。2008年の時点で、既にモロッコの総発電量の1.
8%)、野菜・果実 (7. 9%)、魚介類 (7. 6%) である。(2011年) ここで言う電気機械とは、電気ケーブルを意味している。リン鉱石は価格が安いため、品目の割合としては5位である。主な相手国は、輸出は、スペイン、フランス 、ブラジル、イタリア、インド 。(2014年) モロッコの輸入額は116億ドル。品目は、原油 (12. 0%)、繊維 (11. 9%)、電気機械 (11. 7%)。主な相手国はスペイン、フランス、中国、アメリカ合衆国、イギリスである。(2014年) 参考までに、モロッコにとって主要な貿易相手国ではないものの、日本との貿易では、輸出がタコ(61. 1%)、モンゴウイカ (7. 3%)、衣類 (5. 1%)の順で、リン鉱石も5位に入る。輸入は、乗用車 (32.
5万人である[24]。アルジェリアとの国境付近の町で、アルジェリアの首都のアルジェ方面への鉄道も通る。鉛や亜鉛の主要な鉱山も存在する。 地理[編集] モロッコの衛星画像。 アトラス山脈。 北部のリーフ地方。 南部のサハラ沙漠の砂丘。 詳細は「モロッコの地理(英語版)」を参照 モロッコの国土は、アフリカ大陸の北西端に位置する。海岸のうち約3/4は北大西洋に面し、残りは地中海に沿っている。東西1300 km、南北1000 kmに伸びる国土の形状は、約45度傾いた歪んだ長方形に見える。モロッコの南西に分布するカナリア諸島はスペイン領であり、本土以外に国土を持たない。国土の北部、地中海沿岸のセウタとメリリャは、スペイン本国の飛地である。南西側で陸続きの西サハラを実効支配しているものの、国際社会で占領行為の正当性が広く認められているわけではない。なお、西サハラはかつてスペインの植民地(スペイン領サハラ)だった。 モロッコには大きな山脈が4つある。リーフ地方(エル・リーフ)の山脈は他の3つの山脈とは独立し、地中海沿いのセウタやメリリャを北に眺め下ろしている。最高地点は約2400 mである。南方の3つの山脈はアトラス山脈に属する。アトラス山脈自体はチュニジア北部からアルジェリア北部を通過し、ほぼモロッコの南西端まで2000 km以上にわたって延びる。アトラス山脈は複数の山脈が平行に走る褶曲山脈である。モロッコ国内では北から順に、中アトラス山脈(モワヤンアトラス山脈)、大アトラス山脈(オートアトラス山脈)、前アトラス山脈(アンティアトラス山脈)と呼ばれる。アンティアトラス山脈の南斜面が終わる付近に国境がある。アトラス山脈の平均標高は3000 mを超え、国土のほぼ中央にそびえる標高4165 mのツブカル山(トゥブカル山)が国内最高地点であり、北アフリカの最高峰でもある。カサブランカなどのモロッコの主要都市は大西洋岸の海岸線、もしくはリーフ山地の西、中アトラス山脈の北斜面から海岸線に向かって広がるモロッコ大平原地帯に点在する。 ジブラルタル海峡を挟んでスペインと向き合う[注釈 2]。スペイン=モロッコ間は、ユーラシアプレートとアフリカプレートの境界に当たる。アフリカプレートが年間0.
5割を実効支配しているが、領有を承認しているのはアメリカ合衆国をはじめとした50か国程度にとどまり、国際的には広く認められていない(西サハラの法的地位(英語版)を参照)。実効支配下を含めた面積は約604, 107 km2(うち[6]、西サハラ部分が190, 100 km2)、人口は33, 848, 242人(2014年国勢調査[7])。 地中海世界とアラブ世界の一員であり、地中海連合とアラブ連盟とアラブ・マグリブ連合に加盟している。モロッコはサハラ・アラブ民主共和国を自国の一部であるとの立場のため、独立国家として承認していない。1984年にサハラ・アラブ民主共和国のアフリカ統一機構(2002年にアフリカ連合へ発展)加盟に反対して同機構を脱退し、アフリカ大陸唯一のアフリカ連合(AU)非加盟国であったが、2017年1月31日に再加入した。 国名[編集] 正式名称はアラビア語で、المملكة المغربية(ラテン文字転写は、Al-Mamlaka l-Maghribiya:アル=マムラカ・ル=マグリビーヤ)。通称、المغرب(al-Maghrib:アル・マグリブ)。「マグリブの王国」を意味する。 公式のフランス語表記は、Royaume du Maroc(ロワイヨーム・デュ・マロック)。 通称、Maroc。 公式の英語表記は、Kingdom of Morocco(キングダム・オヴ・モロッコ)。通称、Morocco。 日本語の表記は、モロッコ王国。通称、モロッコ。漢字の当て字は、摩洛哥・馬羅哥・莫羅哥・茂禄子など[8]。 アラビア語の国名にある「マグリブ」は、「日の没する地」「西方」を意味する。「マグリブ」は地域名としては北アフリカ西部を指すが、モロッコはマグリブの中でも最も西の果てにある国と位置付けられる。中世には他のマグリブ地域と区別するために「アル=マグリブ・ル=アクサー」(極西)とも呼ばれていた。 アラビア語以外の多くの言語での国名である「モロッコ」は、以前の首都マラケシュに由来する。 トルコ語での国名は「Fas」で、1925年までの首都フェズに由来する。 歴史[編集] 詳細は「モロッコの歴史」を参照 アル=アンダルスのイスラーム化[編集] 先史時代にベルベル人が現在のモロッコに現れた。古代には沿岸部にカルタゴのフェニキア人によって、港湾都市が築かれた。一方で、内陸部ではベルベル系マウリ人のマウレタニア王国が栄えた。紀元前146年に第三次ポエニ戦争でカルタゴが滅亡すると、マウレタニアはローマ帝国の属国となり、44年にクラウディウス帝の勅令によってローマの属州のマウレタニア・ティンギタナとなった。 マウレタニアの領域。 ローマ帝国が衰退すると、429年にゲルマン系のヴァンダル人がジブラルタル海峡を渡り、アフリカに入った。マウレタニアはユスティニアヌス1世の時代には再び東ローマ帝国の支配下に置かれたが、8世紀初頭にイスラム帝国であるウマイヤ朝が東方から侵攻してモロッコを征服し、モロッコのイスラーム化とアラブ化が始まった。アラブ人はモロッコを拠点にジブラルタルを越え、イベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、アル=アンダルスのイスラーム化を進めた。 788年にアッバース朝での勢力争いに敗れた亡命アラブ人イドリース1世が、イスラーム化したベルベル人の支持を得て、イドリース朝を建国した。また、サハラ交易で栄えたシジルマサにはミドラール朝が成立した。その後、チュニジアから興ったイスマーイール派のファーティマ朝の支配を経た後に、イドリース朝は985年にアル=アンダルスの後ウマイヤ朝に滅ぼされた。 しかし、後ウマイヤ朝は1031年に滅亡し、その支配領域はタイファと呼ばれる中小国家群に分裂した。権力の空白地帯となったモロッコは、南方のセネガル川の流域から興ったムラービト朝の領土となり、1070年には新都マラケシュが建設された。ムラービト朝は南方にも攻勢をかけて1076年にクンビ=サレー(英語版)を攻略してガーナ帝国を滅ぼし、さらに再度北進して、ジブラルタルを越えてレコンキスタ軍と戦い、アル=アンダルスを統一した。 18世紀まで[編集] ムワッヒド朝のヤアクーブ・マンスールの時代に造営されたクトゥビーヤ・モスク。 ラス・ナーバス・デ・トローサの戦いの絵図。 1130年にムワッヒド朝が成立すると、1147年にムワッヒド朝はムラービト朝を滅ぼし、アル=アンダルスをも支配した。第3代ヤアクーブ・マンスールの時代にムワッヒド朝は東はリビアにまで勢力を伸ばし、マグリブ一帯を包括する最大版図を確立したが、続くムハンマド・ナーシルは1212年にラス・ナーバス・デ・トローサの戦いでレコンキスタ連合軍に敗れ、アンダルシアの大部分を喪失した。ムワッヒド朝はこの戦いの後に衰退を続け、1269年にマリーン朝によってマラケシュを攻略され、滅亡した。 マリーン朝はフェスに都を置き、しばしばナスル朝を従えるためにアンダルシアに遠征したが、14世紀後半に入ると衰退し、1415年にはアヴィシュ朝ポルトガルのエンリケ航海王子がジブラルタルの対岸のセウタを攻略した。セウタ攻略によって大航海時代が始まった。マリーン朝は1470年に滅亡したが、『旅行記』を著したイブン=バットゥータなどの文化人が活躍した。 マリーン朝の滅亡後、1472年にワッタース朝フェス王国が成立したが、1492年にカトリック両王の下で誕生したスペイン王国がナスル朝を滅ぼしてレコンキスタを完遂すると、ワッタース朝はポルトガルに加え、スペインの脅威をも受けることにもなった。ワッタース朝は衰退し、ポルトガルに攻略されたアガディールなどを奪還したサアド朝(サーディ朝)によってフェスを攻略され、1550年に滅亡した。 サアド朝は、ザイヤーン朝を滅ぼしてアルジェリアにまで進出したオスマン帝国を退け、キリスト教徒との戦いにおいても、1578年にアルカセル・キビールの戦いで侵攻してきたポルトガル軍を破り、ポルトガルの国王セバスティアン1世は戦死した。この事件がきっかけになって1580年にポルトガルはスペイン・ハプスブルク朝に併合された。さらに南方に転じて1591年に、内乱の隙を衝いてトンブクトゥを攻略し、ソンガイ帝国を滅ぼした。しかし、17世紀に入るとサアド朝は急速に衰退し、1659年に滅亡した。 1660年に現在まで続くアラウィー朝が成立した。1757年に即位したムハンマド3世はヨーロッパ諸国との友好政策を採り、デンマークを皮切りに各国と通商協定を結び、1777年には世界で初めてアメリカ合衆国を承認した。 フランス資本の定着まで[編集] 続くスライマーンは、鎖国政策を採った。しかし、1830年にフランスがアルジェを征服したことにより、マグリブの植民地化が始まると、モロッコの主権も危機に脅かされた。1844年にアラウィー朝はフランス軍によるアルジェリア侵攻の中で、アブデルカーデルを支援して軍を送ったが、イスーリーの戦い(英語版)で敗れた。1856年にはイギリスと不平等条約を結び、それまでの鎖国政策が崩れた。1859年にはスペイン軍の侵攻によりテトゥワンを攻略された(スペイン・モロッコ戦争)。 1873年、新たなスルタンとしてムーラーイ・エル・ハッサン(英語版)が即位した。ベルベル人などの諸勢力を掃討するため、財政支出によりクルップ砲を導入するなど、軍事力を強化した。後継の息子(アブデルアジズ4世)は未成年で即位し、ドイツ帝国が政治へ助言した。 1904年の英仏協商でモロッコを狙っていたイギリス・フランス両国の妥協が成立し、フランスがモロッコにおける優越権を獲得した。なお、これが1905年に英仏協商に反対していたドイツ帝国が、タンジール事件を起こした原因であった。さらに1911年にドイツ帝国が再びアガディール事件を起こし、フランスを威嚇したものの、最終的にはドイツが妥協した。1912年のフェス条約で国土の大部分がフランスの保護領にされ、仏西条約で北部リーフ地域はスペイン領モロッコとなった。 フランス領モロッコ初代総督、ウベール・リヨテの写真。 フランス領モロッコの初代総督には、ウベール・リヨテ将軍が就任した。将軍は政情不安なフェズから、ラバトへと遷都した。1913年にドイツ・オリエントバンクのモロッコ支店が、ソシエテ・ジェネラルに売却された。1919年に北アフリカ総合会社(ONA Group)が設立された。1920年にアブド・アルカリームが、スペイン領モロッコのリーフ地方で反乱を起こし、第三次リーフ戦争が勃発した。アルカリームはリーフ共和国の建国を宣言したが、スペイン軍とフランス軍に敗れ、1925年にリーフ共和国は崩壊した。1930年代から独立運動が盛んになった。 1936年に駐モロッコスペイン軍のエミリオ・モラ・ビダル将軍が共和国政府に対して反乱を起こし、カナリア諸島のフランシスコ・フランコ司令官が呼応したため、モロッコを拠点にした反乱軍と政府軍の間でスペイン内戦が始まった。スペイン内戦では7万人近いモロッコ人兵士が、反乱軍側で戦った。第二次世界大戦中には自由フランスがヴィシーフランスからモロッコを奪回し、1943年に連合国のウィンストン・チャーチルとフランクリン・ルーズヴェルトによってカサブランカ会談が開かれた。 モロッコは1956年にフランスから独立した。スペインはセウタ、メリリャ、イフニの飛地領とモロッコ南部保護領(タルファヤ地方)を除いてスペイン領の領有権を放棄した。翌1957年にスルターン・ムハンマド5世が国王に即位し、スルターン号が廃止された。1957年にイフニを巡ってスペインとの間でイフニ戦争が勃発し、紛争の結果、スペインは南部保護領だったタルファヤ地方をモロッコへ返還した。 外資と君主と実効支配[編集] ハサン2世。親西側政策の下モロッコを統治した。 「北アフリカ総合会社」も参照 1961年にハサン皇太子が、父の死去に伴い国王に即位した。翌1962年に憲法(英語版)が制定され、モロッコは君主の権限の強い立憲君主制国家に移行した。ハサン2世は内政面では政党を弾圧し、軍部と警察に依拠して国内を統治しながら外資導入を軸に経済発展を進め、対外的にはアメリカ合衆国など西側諸国との協力関係を重視しながらも、パレスチナ問題ではアラブを支持した。1965年にはハッサン2世への反対運動を展開していた人民諸勢力全国同盟(UNFP)の党首・メフディー・ベン・バルカの失踪事件が、パリで起こった。1967年のイスラエルと6日間戦争の結果、アラブ世界に復帰した。1969年にはスペインが飛地領のイフニをモロッコに譲渡したが、スペイン領西サハラはスペインの領有が続いた。 一方で、内政は安定しなかった。例えば、1971年7月に士官学校校長と士官らが、夏の宮殿を襲ったクーデターが失敗に終わった[9]。さらに翌1972年には、ハサン2世の信任が厚かったムハンマド・ウフキル(英語版)将軍が、国王の搭乗していたボーイング727旅客機に対して撃墜未遂事件を起こした。これを受けてハサン2世は、ウフキル将軍とエリート幹部(英語版)の排除を行った(Years of Lead)。 1958年のシントラ協定でタルファヤを、1969年のフェズ協定でシディイフニを回復した後、モロッコはスペインが支配する南部の残りの領土からの撤退を交渉した。1975年11月に西サハラに対して非武装で越境大行進を行い(緑の行進)、西サハラを実効支配した。そして同年のマドリッド協定でサキアアルハムラとウエドエダハブ地域を獲得した[10]。1976年にはモロッコとモーリタニアによって西サハラの統治が始まったものの、同年アルジェリアに支援されたポリサリオ戦線がサハラ・アラブ民主共和国の独立を宣言した。激しいゲリラ戦争の後、モーリタニアは西サハラの領有権を放棄したのに対して、モロッコは実効支配を続けた。1989年にはマグリブ域内の統合を図るアラブ・マグレブ連合条約が調印された。1991年には西サハラ停戦が成立したものの、住民投票は実施されず、西サハラ問題は現在に至るまで未解決の問題として残っている[11]。 1992年に憲法が改正された。1999年に国王ハサン2世が死去したため、シディ・ムハンマド皇太子がムハンマド6世として即位した。同年から直接投資受入額が急伸した。2002年にペレヒル島危機(英語版)が起こり、スペインとの間で緊張が高まったものの、アメリカ合衆国の仲裁で戦争には至らなかった。2003年5月16日にイスラーム主義組織によって、カサブランカで自爆テロ事件が発生した。ムハンマド6世は2004年の新家族法の制定に主導権を執るなど、自由主義的な改革を進める立場を示した。モロッコの実質経済成長率は、1997年のマイナス成長を最後に、2019年までプラス成長を続けている。 世界金融危機が最も顕在化した2008年10月に、モロッコはEUの近隣諸国で初めて「優先的地位(Advanced Status)」を獲得した[注釈 1][12]。 2011年に起きたアラブの春の影響を受けた騒乱により、7月に憲法改正を実施した。翌年初めアブデルイラーフ・ベン・キーラーン内閣が発足した(2017年4月まで)。 2016年7月17日に、ムハンマド6世がアフリカ連合への復帰を目指すと表明した[13][14]。2016年9月には加盟申請を行った旨を明らかにした[15]。そして2017年1月31日に、エチオピアの首都アディスアベバで開かれた首脳会議で、アフリカ連合への再加入が承認された[16]。 2018年5月1日に、モロッコのブリタ外務大臣が、イランとの国交を断絶したと表明した。西サハラで独立運動を展開するポリサリオ戦線に対して、イランおよびイランの影響下にあるヒズボラ(レバノンのイスラム教シーア派組織)が、アルジェリア経由で支援を与えている事を理由に挙げた。なお、イランとは2009年~2014年にも断交していた[17]。 2021年8月24日にアルジェリア政府は、カビリー地方の独立運動や国内の山火事にモロッコが関与しているとして、モロッコとの国交断絶を宣言した[18]。 政治[編集] 詳細は「モロッコの政治(英語版)」を参照 国家体制は国王を元首とする、立憲君主制を採っている。現国王として在位しているのはアラウィー朝のムハンマド6世である。憲法によって議会の解散権や条約の批准権を認められており、軍の最高司令官でもある。 2011年の2月から4月にかけて、アラブの春の影響でデモが発生し、憲法改正が承諾された。2011年7月の憲法改正により、国王の権限縮小と首相の権限強化が為された[19]。 「モロッコの君主一覧」および「モロッコの首相一覧(英語版)」も参照 議会は1996年から両院制に移行し、下院は5年の任期で定数は325議席、上院は6年の任期で定数は90から120議席である[20]。2007年に行われた下院選では、保守系の独立党(イスティクラール党とも)が52議席を獲得して第1党、イスラーム主義の公正発展党が46議席で第2党、選挙前の最大勢力であった左派の人民勢力社会主義同盟は大きく議席を減らし、38議席になった。 2011年の憲法改正後、2011年11月25日に実施された下院選挙では、定数395議席の内、公正発展党 (PDJ) が80議席を獲得し、第1党となった[21][22]。政党連合「民主主義連合」を形成する独立党(イスティクラール党)は45議席となった。この2011年の選挙以降は、それまで国王任命であった首相が、選挙で多数議席を獲得した政党から選出されている。 「モロッコの政党」および「モロッコ議会」も参照 合法イスラーム主義政党の公正発展党以外にも、モロッコ・アフガンやサラフィスト・グループなどの非合法イスラーム主義組織が存在する。しかし、2003年のカサブランカでの自爆テロ事件以降、非合法イスラーム主義組織は厳しく取り締まられている。 軍事[編集] 詳細は「モロッコ王立軍(英語版)」を参照 モロッコには18ヶ月の徴兵期間が存在し、50歳まで予備役義務が存在する。国軍は王立陸軍、海軍、空軍、国家警察、王立ジャンダルメ、外人部隊から構成される。国王は憲法によって軍の最高司令官であると規定されている。国内警備は一般に効果的であり、2003年のカサブランカでのテロのような例外を除いて政治的暴力は稀である。国際連合は小規模な監視部隊を、多くのモロッコ兵が駐留している西サハラに維持している。 なお、赤道ギニアなど数か国に、元首の警護や軍事教練などを目的として、少数の将兵を派遣している。 地方行政区分[編集] モロッコの行政区画 詳細は「モロッコの行政区画」を参照 モロッコの行政区分は、12の地方と、51の第2級行政区画で構成されている。この行政区画は西サハラおよびサハラ・アラブ民主共和国の実効支配地域を含む。 主要都市[編集] 詳細は「モロッコの都市の一覧」を参照 2021年時点で、人口100万人を超えていた都市が2つ存在する。一方で、2020年時点でも、都市人口率は63.
モロッカン・サハラ | Morocco Embassy
モロッコ - Wikipediaこの項目では、国について説明しています。映画については「モロッコ (映画)」をご覧ください。 モロッコ王国 ⵜⴰⴳⵍⴷⵉⵜ ⵏ ⵍⵎⵖⵔⵉⴱ(ベルベル語)المملكة المغربية(アラビア語) (国旗) (国章) 国の標語:الله، الوطن، الملك(アラビア語)ⴰⴽⵓⵛ, ⴰⵎⵓⵔ, ⴰⴳⵍⵍⵉⴷ(ベルベル語派)(神、国、王)1 国歌:النشيد الوطني المغربي(アラビア語)ⵉⵣⵍⵉ ⴰⵏⴰⵎⵓⵔ ⵏ ⵍⵎⵖⵔⵉⴱ(ベルベル語派)国王万歳 公用語 アラビア語[1]、ベルベル語[1] 首都 ラバト 最大の都市 カサブランカ 政府 国王 ムハンマド6世 首相(英語版) アジズ・アハヌッシュ 面積 総計 446, 550km2(57位)[2]3 水面積率 0. 1% 人口 総計(2020年) 3691万1000[3]人(40位) 人口密度 82. 7[3]人/km2 GDP(自国通貨表示) 合計(2018年) 1兆1084億6300万[4]モロッコ・ディルハム GDP(MER) 1180億9600万[4]ドル(58位) 1人あたり 3353. 1[4]ドル GDP(PPP) 2790億4200万[4]ドル(55位) 7922. 828[4]ドル 独立フランスから1956年3月2日 通貨 モロッコ・ディルハム(MAD) 時間帯 UTC+1 (DST:なし) ISO 3166-1 MA / MAR ccTLD. ma 国際電話番号 212 1 この標語は、憲法に明記された現国王の標語である。2 モロッコ本土のみのデータ。3 710, 850 km2には、モロッコが主張する西サハラ全体が含まれる[5]。 モロッコ王国(モロッコおうこく、アラビア語: المملكة المغربية、ベルベル語: ⵜⴰⴳⵍⴷⵉⵜ ⵏ ⵍⵎⵖⵔⵉⴱ)、通称モロッコは、北アフリカ北西部のマグリブに位置する立憲君主制の国家である。東でアルジェリアと、南で西サハラ(紛争地域)と、北でスペインの飛地(セウタとメリリャ)と接し、西は大西洋に、北は地中海に面している。首都はラバトである。 南に接する西サハラはスペインが放棄後、モロッコと現地住民による(亡命)政府であるサハラ・アラブ民主共和国が領有権を主張している。モロッコは西サハラの約7.
大会12日目 結果 日本、スペイン、モロッコ、クロアチアが進出
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【カタールW杯】モロッコvsスペインの試合日程・放送予定
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マンマ・ミーア! スペイン・イタリア・モロッコ安宿巡礼記
5パーセントと低い[23]。 カサブランカ - モロッコ最大の都市で、2021年時点での人口は、314万人である[24]。映画でも名を知られている。加工貿易のための特区が設けられている。さらに、金融業のための特区も設けられている。 ケニトラ - 2021年の時点での人口は、36. 7万人である[24]。加工貿易のための特区が設けられている。 エルジャディダ - 2021年の時点での人口は、14. 8万人である[24]。 マラケシュ - 2021年の時点での人口は、83. 9万人である[24]。観光業が盛んである。かつては都が置かれ、モロッコの国名も、この都市名に由来する。 フェズ - 2021年の時点での人口は、96. 5万人である[24]。かつてはモロッコの首都であった。迷宮のような市街地が有名。 タンジール - 2021年の時点での人口は、68.
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スペイン・ポルトガル・モロッコの周遊旅行の行程案について